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事務長 石本春樹
先日、新元号の発表がありました。
近代の幕開けとなった明治、それに続く大正・昭和・平成を経て、新たな時代を迎えようとする興奮がしばらくはTVや新聞紙上を賑わせることでしょう。
新しい元号は、なんと我が国の古典中の古典、「万葉集」に典拠するということで、久々に手に取ってみようと家にある黴臭く重たい歌集を取り出して眺めていましたところ、梅之香の章を探すうちに、人麻呂の三十一文字に目が留まりました。
「礒の上に 生ふる小松の 名を惜しみ 人に知らえず 恋ひわたるかも」
歌聖が描く、恋を秘めた女性が浮名を流すまいとして慎んでいる心象に、あはれさを感じたことが、この項の筆起こしです。
その慎みは、「名」を惜しむという言葉によって強められていますが、実際に私たちは、「名」を惜しんだ人々の身仕舞について、上古から近代にいたるまでの歴史や物語の中に多くの事例を拾うことができます。
例えば、平安後期の瀬戸内海では自身の去就に恥を添えまいとする平家の公達がその精神を示しましたし、功利主義の目立った下剋上の戦国動乱期ですら自らの生を鴻毛の軽きとして強大な勢力に挑む大坂真田山の牢人たちがいました。江戸前期の佐倉藩公津村の義民や明治期の栃木から出た衆院議員は人々の艱難を排せんとして私を去り、七十数年前の戦時には銃後の安寧を希求して数多くの防人が太平洋に散華していきました。
武士も、名主も、議員も、軍人も、それぞれの立場や時代背景にあって、「名」を慎み自ら使命や役割に忠実であることを欲した帰結として、これらのことがあったのだといえましょう。
翻って、私たち現代の福祉専門職の集団においては、介護士には介護士の、看護師には看護師の、機能訓練指導員や栄養士にもそれぞれの「名」があり、その「名」があらわす体としての使命と役割があります。制度利用を希望する人々を前にどのような思いを抱き、地域のさいわいのために何を願うのか、令和の時代にも自問を続けていきたいものです。礒(いそ)の上の小松のように慎み深く、凛として。